2012/12/23

荒海越えし、もののふ魂よ...!

某月某日連日寒い日が続き、心折れそう漂風が足元にまとわりついていた。舷側には駿河湾を越え、寒気を伴ったおおならいが吹き抜けていく。頃は天正18年(1590)二月、切り裂く寒気が尾根づたいに今山を経て海へと落ちるその先に、北条氏が海賊城の城将である梶原備前守兼宗の阿蘭城があった。
出典:石井謙治氏
それは城というより数十メートル前後の狭い丘陵上から海へと続く、なだらかな尾根の先端の網屋岬に設けられた物見砦に近かった...と云う!梶原吉右衛門(景宗、のち備前守)は北条氏康より海上警固を命ぜられたが、小田原合戦で徳川の臣、本多作左衛門重次、向井正綱の率いる水軍によって落城後、北条氏直の高野山追放に梶原備前守も随行、のち紀州広村に帰農する。

その戦いは徳川水軍の半分ほどのあだけ丸の大筒1門1艘と水軍船隊の巡洋艦的役割を果たす関船、小さな早船(小早船)多数に対し、徳川家康が向井将監に建造させた安宅丸(大筒三門の船首に長さ3間の竜頭を置き、竜骨の長さが125尺(38メートル弱)、肩幅が53.6尺(約20メートル)で推定排水量が1500トン、艪(ろ)数は2人掛りの100挺であった。)六艘には敵うわけもなく撃沈或いは毀ちて敗走したという。
ボイちゃん!面白い本をあげるよ...YBMで泥酔していた、とある時に呑み友達の姫ちゃんから頂いた。それは ″ 見知らぬ海へ " 戦国末期、好きな釣りに出ている間に敵の攻撃を受け、持舟城で父と兄を失った男がいた。駿河湾決戦で北条水軍との戦いに頭角を現し、向井水軍の長として徳川家康をも唸らせた海の武将の歴史小説だった。
あちらこちらの忘年会に疲れ、扁桃腺を腫らし北キツネのようなコンコン病原菌扱いされながら、この歴史小説を一気に読み通してしまった。小説の中の向井正綱は小早船に張った南蛮風の三角帆を自在に手繰り、風上に切り上がる術に長けていた。櫓を押すよりはるかに早く、しかも音も立てない現在の帆走に近い操船術であった。
阿蘭城の真下の海面に船を停泊している安良よっとが、この城に興味を持たぬわけが無く常日頃Netや文献で検索していたのだが、この小説で攻め落とした側の将からみる物語は成る程...と、素直に馴染んでしまうのでありました。
清水湊を拠点とする向井正綱は武田水軍滅亡の後、遠い昔から駿河、遠州、三河と駆け巡り名を馳せた本多作左衛門重次の達ての所望により徳川水軍の長として帰属した。そして今また信長の命により船体に鉄板を張り巡らせた安宅装甲船を持つ九鬼水軍を長とした豊臣方連合軍に加わり、北条水軍と決戦の火蓋が切られようとしていた。このとき豊臣側二十二万、北条側がかき集めた軍勢は農、町民混じえ五万二千有余と言われている。
世に言う北条氏の戦術をめぐる評議での論争が長引き拗れた小田原評定にて、小田原城籠城と言う消極的防衛策に決まった。それに寄り伊豆水軍は小さな砦は放棄され、次の五つの獅子浜城、伊豆水軍の集結地の重須砦、安良里砦、田子砦、下田城で死守することとなったのである。
にびいろ(鈍色)の空からおおならいが吹き荒れ、みぞうの大しけが近づいていた。阿蘭城には本多作左衛門重次の兵が安良里に上陸し、田子砦は向井正綱が海から安宅丸の大筒と、暴風雨の夜陰に忍び上陸した軍勢に攻められ炎上し落城したのだと伝えられてる。時は天正十八年 吹きすさぶならいの緩む...里山に芽吹いた桜が緩やかに舞う四月一日と記されていた。
 
その後の二武将:
 勇猛果敢で剛毅な性格から「鬼作左」の通称で呼ばれた本多作左衛門重次は豊臣秀吉の怒りを買い、家康に命じ上総国 古井戸(現:千葉県君津)に蟄居させられた。その後、下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市)に、文禄5年(1596年)7月16日、68歳で死去。
 向井正綱は三浦郡三崎で舟手奉行「向井将監」として徳川家康の元、江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めたと言う。屋敷は三浦諸磯近く源頼朝の別邸のひとつだった「桃の御所」(現:見桃寺)に住んだと言われている。

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